時が止まっている“もの”を再生しよう——被災物をめぐる記憶をほどき、繕うワークショップ体験記
レポート
時が止まっている“もの”を再生しよう
——被災物をめぐる記憶をほどき、繕うワークショップ体験記
丹羽朋子
私/私たちの記憶を宿す身体は、どんな広がりをもちうるのか
あの震災から遠い私の身体は、どうすればその記憶を分かちもつことができるのだろうか
湊町二丁目、吹上、伊原津…… 石巻駅から乗ったバスは、海辺を思わせる停留所が連なる。最寄りのバス停を降りると、新しそうな顔の復興公営住宅。そこを過ぎた路地に〈渡波の家〉(わたのはのいえ)はある。早めに着いたので歩いて5分だという海の方に向かうと、公園のジャングルジムの上で漫画を囲む少女たちが見えた。「震災後生まれの子ども達は海には行かないですね。中学生になればのぞきに行く子もいるようですが……」引率の先生によれば、今年9歳になる彼女たちは防潮堤の内側の景色しか知らないのだという。
そびえ立つコンクリの壁を駆け上がると、強風と轟音が全身を包む。眼下には弓なりの海の上を渡る一筋の白波。防潮堤を降ると津波で防砂林が流されたのか、ぽかんと空いた土地にセイタカアワダチソウが茂っていた。〈渡波の家〉はたしかこの裏手にある。なぜこの名をつけたのか、ちばさんに聞いてみようと思った。
(2025/10/18の筆者のフィールドノートより)
このレポートでは、2025年10〜11月、〈渡波の家〉で2回にわたり行われたワークショップ《時が止まっている“もの”を再生しよう》(主催:石巻アートプロジェクト)を、一参加者の立場で記録していく。しかしながら、私は文化人類学の研究者で芸術評論めいた文章は不得手だし、摩訶不思議なこの体験を自分視点からのみ記すのは相応しくない気がした。そこで、ワークショップ(以下、WS)の参加者やその後にちばさんのお話を一緒に伺った大学生たちの声[1]も借りながら、私/私たちがたくさんの時間を重ね合う〈家〉やモノに突き動かされた軌跡を辿ることにしたい。
1. 〈渡波の家〉がひらかれるまで
まずはこのWSを紹介する準備として、ちばふみ枝さんの震災前のご自宅が〈渡波の家〉としてひらかれた経緯を、ご自身の説明をもとにふりかえっておこう[2]。
2011年 ちばさん、地元へUターン帰省
2019年 家の片付けを再開
(2020年 アートスペース「mado-beya」を市の中心部にオープン)
2020-2021年 ZINE『海とカモシカ』Vol.1-2、『くすんだベールの干渉』刊行
2021年 「石巻アートプロジェクト」開始
2022年 ドキュメンタリー短編映像『家は生きていく』(松井至監督)撮影
2023年 5月(3日間)「オープンスペース in 渡波の家」開始
2024年 5月(2日間)「荒れた庭の再生・メンテナンスについてのレクチャー」
「時が止まっている”もの”を広げてみるワークショップ」
10月(2日間) リノベーション講座「壁補修から今後の“家”を構想する」
2025年 2-3月(9日間) 展覧会「わたしたちはばらばらの場所で」
10-11月(2日間) WS「時が止まっている“もの”を再生しよう」
宮城県石巻市出身の彫刻家であるちばふみ枝さんは、2011年の東日本大震災を機に帰郷し、現在は作品制作と合わせ、2020年にオープンしたアートスペース「mado-beya」を運営している。あの日、ご家族が住んでいた〈家〉には1階の天井を越える高さまで津波が押し寄せた後、壁は壊され、押し流されたモノたちは潮水と砂にまみれた。ご家族は石巻市内の親族宅へ身を寄せ、仙台の賃貸住宅、市内の新居へと移り住んだが、〈家〉は解体されず空き家になっていたのを、ちばさんがアトリエとして使い始めたのだという。
転機は2019年。〈家〉の片付けを再開したちばさんは、その「手入れ」の様子や中にあった捨てられなかったモノたちを撮影し、写真を「mado-beya」で展示したり、ZINEに編むようになる。〈家〉の庭にカモシカが現れることにちなんで『海とカモシカ』と題された2冊のZINEには、掃き清められた板の間に集められた砂の山や、カセットテープ、アクセサリー等の砂をまとった家族の所有物=被災物が、ポートレート写真のように並んでいる[3]。
つづく3作目の『くすんだベールの干渉』(2021)に収められたのは、〈家〉に干された色とりどりの服の写真だ。服の持ち主はちばさんのおばあさまで、津波からの避難の途上で亡くなられたという。2011年の4〜5月、それらの服を干し始めた家族を手伝うようになったちばさんは、何気なくその情景にカメラを向けた。

私は2021年、ある展覧会[4]でそれらの写真と出会い、狂おしいほどの愛着と喪失感を帯びたイメージに共振して、初対面のちばさんに連絡してこの〈家〉を訪れたことがある。〈渡波の家〉になる前から1階の部屋には、おびただしい数の衣装ケースが閉じられたまま置かれていた。印象的だったのは、ちばさんが、〈家〉の他のモノとは異なり、「祖母の大量の衣服を1 点1 点撮ることは考えられない」と語ったことだ。服はあまりにその人の生々しい記憶を喚起するモノであり、写真を見る人に「着用していた誰か」を想像させるからだという。当時これを聞いて、その持ち主の記憶はちばさんはじめ故人に身近な方々のものであり、縁もゆかりもない私は触れるべきでないと、たじろいだのを覚えている。
その後「石巻アートプロジェクト」が始動し、2022年に映画監督の松井至さんが、〈家〉と手入れするちばさんの営みを、そこに宿る時間ごと映像作品の中に写し取ったことで、この〈家〉の時計は再び動き始める[5]。2023年春、〈渡波の家〉と呼ばれることになったこの家は「オープンスペース」として年に数回、外からの訪問者を迎え入るようになる。以降、庭の木々の剪定や家屋を修繕するWSの場となったり、昨年にはそれまで土足だった1階が靴を脱いで上がれるよう手入れされ、とうとう展覧会の会場にもなった。これらの活動についてはそれぞれの詳細なレポートに譲り[6]、ここではこの〈家〉の一連の歩みをちばさんから伺った、大学生たちの感想を紹介したい。
《家は生きていく》という作品として家が記録されたことで片付けられるようになったり、覚えていられなくても思い出せばいいといったお話を聞いて(……)無くならない、いつでもそれが存在していたことを確かめられるというのが大切なんだなと、気づいた。
家に人がいることは家の記憶を新たに作ることであり、家が生き続けること、つまり修繕につながるのだと考えた。
ちばさんはかつて、写真に残すことで実物を捨てる踏ん切りをつけ、震災から止まってしまった自身の時計を動かして前に進むために、家の中のモノを撮っていると語っていた。だが、それらは映像として記録/記憶された後も〈家〉の中にとどめ置かれ、「手入れ」に参加する訪問者たちに少しずつ手渡されるようになる。こうした先に企画されたのが、本WSであった。
2. 被災物の「クリエイティブなお手入れ」
本企画とそれまでのWSとの違いは、「手入れ」する相手が不動の〈家〉ではなく、小ぶりの〈モノ〉であることだ。参加者は1日目に自分なりの選択眼をもって〈渡波の家〉の被災物と出会い、鞄に詰めて自宅に移す。それから1ヶ月かけて「クリエイティブなお手入れ」をほどこし、2日目に「再生」したモノを携えて再訪する。
これに応答した参加者は、千葉勝子さん、佐藤千穂さん、高橋広子さん、間瀬幸江さん、梶原千恵さん、筆者(丹羽朋子)の計6名(以下、各参加者は下のお名前をカタカナ表記する)。
参加者たちからは、「クリエイティブなお手入れ」という文言が、作品化ほどは求められない「服を洗濯して着てみるくらいのハードルの低さ」だと感じて来てみたという声も聞かれた。ところがその後、私たち参加者はこの「クリエイティブなお手入れ」に、思いのほか悩まされることになる。
3.時が止まっている“もの”を広げてみる(10月18日)
慰霊塔の看板、復興公営住宅、巨大防潮堤——。津波で一変した風景が日常化したこの地域では、被災の痕跡や海そのものが見えづらくなっている。そんな土地にひらかれた〈渡波の家〉は、津波を被った時間をとどめながらもその後の時間をゆっくりと進める、生きたタイムカプセルのような装置=場所だ。
WS1日目、まずはちばさんの案内で〈家〉の中を巡った。居間の本棚には砂のこびりついた『石巻史』全集が残されており、挟みこまれていた石巻の古地図を囲み、地元からの訪問者たちが震災の前と後の地域の記憶を重ねて語り合う。玄関横の戸を引くと、中身の入ったたくさんの靴箱。そこからの流れで私たちは、あの衣装ケースを開いて中の服を1枚ずつ取り出した。あたたかな陽が降り注ぐ居間の床に、カラフルな服が花畑のように敷き詰められていく。


夢中で作業していたのか、電灯のない部屋には知らぬ間に夜のとばりが下りていた。この日、ちばさんは幾度か「今日はにおいが強い」と口にしていた。表側はきれいに掃除された〈家〉も、戸を開けモノを掘り返そうとすると、ここそこから砂がこぼれ落ち、かすかに湿気を帯びているのがわかる。
帰り際、参加者たちは選んだモノと思いついた「お手入れ」の仕方を伝えあった。ユキエさん以外の5人とちばさんは、はからずもちばさんのおばあさんの服を選んだ。各々がその〈服〉を選んだ理由を聞きながら、なんだか「形見分け」みたいだと思った。参加者たちの話の中で、とりわけ触発されたのは、ユキエさんのアイディアだ。かつてのおばあさんの居室で写真の山を見つけた彼女は、手に取ったポケットアルバムの表紙の「1984年」という手書き文字を見て、同時期に高校に通わなくなった自身を想起し、物語を書くことを思いついたという。ユキエさんが「被災物」と参加者である〈私〉との結び方をより遠くに飛ばしてくれたことで、私を含む他の参加者たちの「クリエイティブなお手入れ」の幅も広がったように思う。
1日目の終了後、ちばさんはSNSにこのように綴った。
再生されるものは「被災物」だけではなく、参加者たちの記憶でもあると感じた、とご感想をいただきました。手入れすること、修繕すること、思い出すこと、を通して回復するもの。様々なことに思いを馳せてじわじわ振り返りつつ、来月2回目の開催に備えたいと思います。
4.ふたりのおばあさんの服を纏う
ここからは一例として、私自身の1ヶ月間の「クリエイティブなお手入れ」を紹介したい。最終的には、《ふたりのおばあさんの服を纏う》と題する短編映像を作った。持ち帰ったモノを新たな作品に“変えられなかった” 試行錯誤の記録である本作に沿って、そのプロセスを辿ろう。
1日目のWSで、ちばさんのおばあさんの服の中から、ふくよかになった自身の身体でも入りそうなゆったりサイズのカットソーやレトロ柄のワンピースを持ち帰った。まずは洗おうと洗濯機に入れた瞬間、「ホントにこれでいいのか?」と不安がよぎる。この違和感は「きれいさっぱり」してしまった服を干す際に、えも言われぬ後めたさに変わった。同時に後戻りできないからには、「応答しないと!」という使命感が芽生えた。
とはいえ、東京の狭いベランダに干された服たちは「居場所はここじゃない」と私に訴えてきて、途方にくれた。“洗った”という「お手入れ」だけでも記録しようと、ビデオカメラを回す。
小鳥と飛行機の声が混じり合う小さな青空に、鮮やかな黄色や花柄の服がゆれている。その光景をファインダー越しにのぞきながら、これもアリかも、と思い始めた。


なによりも、私はこれとよく似たものを知っている。干したことで気がついた、スカートの裏の縫い跡。ウエスト部分にゴム紐を縫い付けた手の跡は、私がもらい受けた母方祖母の服のお直しの跡を思わせた。

その後も「再生」の仕方が見つからぬまま時は過ぎ、何かせねばと服を着て街に出てみることにした。季節に服がそぐわないとはいえ、近所を一周する程度じゃ申し訳が立たない気がして、思い切って職場の大学に着ていった。教室にカメラを据え、授業開始早々コートを脱いで、なぜ私が初冬に大学で、普段と異なる派手な花柄の夏物ワンピースを着ているのかを説明する。撮影した動画には、「ちばさんのおばあさんを私の職場に連れてこようと思った」と語りながら、所在なく腕や腰をさすっている私の身体が写されている。その話を、戸惑った顔で若干引き気味に聞く学生たち。その反応を見てようやく、津波で亡くなった女性の、津波を被った遺品を見ず知らずの〈私〉が身に纏うことの奇妙さを実感した。

けれど、私は普段から実の祖母の服を古着として着ている。それと、ちばさんのおばあさんの服を着ることとは、何が違うのだろう。ちばさんのおばあさんと、昨年98歳で亡くなったうちの祖母、小川淳子は1歳違いであった。石巻と横須賀、同時代に異なる場所で生きた二人の服好きの女性たちを、私の心身を媒介に出会わせたいと思った。きっと、気が合うのではないかと想像した。
意を決して、身近なようで身近でなかった「淳子さん」の記憶をたぐり始める。スマホに入れっぱなしの過去の写真を見返して、20年もの間認知症で言葉を交わすことのできなかった彼女の姿、その意思を確認できないまま解体してしまった実家、その場所に新築された家で無邪気にひ孫たちが遊ぶイメージを繋いでいく。この編集作業は私にとって、長きにわたり彼女を“病んだ老女”と見ていた(見て見ぬ振りをしていた)孫であった自分の、不都合な過去と向き合う経験にもなった。
そんな私がどうすれば祖母を思い出せるというのか。ふと、映像に映った自身の、ちばさんのおばあさんの服で教壇に立つ身体が、結婚前に洋裁を教えていたという淳子さんの身体に重なって見えた。実家の解体時にとってあった古い菓子箱をひも解き、初めて見る淳子さんの洋裁学校時代のノートや縫製・刺繍サンプルを取り出して、一つ一つの手の跡にシャッターを切る。型紙に使われていた新聞紙の記事からは、淳子さんやちばさんのおばあさんと同じく、戦後まもない時期にも手作りの服でおしゃれをして、困難な時代を生き抜いてきたのであろう女性たちの十人十色の生き様が垣間見える気がした。それは一人の女性としての淳子さんと、重なり合う〈彼女たち〉と、出会い直す時間だったのかもしれない。


2日目のWSには、映像作品の最後に入れた二人のおばあさんの服の組み合わせを実際に身につけて参加した。ちばさんのおばあさんが着ていたというカットソーは、自分では絶対に買わない派手な山吹色で初めは気恥ずかしかったが、腕を通してつけ慣れたアクセサリーと合わせ、鏡に映る自分としばらく対面するうちに、少しずつ心身に馴染んできた。それでいて元の持ち主の気配が消えたわけではなく、以前着ていた人がそっと近づいてきたような不思議な感覚を覚えた。
5. 時が止まっていた“もの”を再生してみる(11月15日)
2日目のWSでは、ちばさんを含む6人の参加者が「クリエイティブなお手入れ」を報告した。ここで語られた詳細については映像レポートに譲り、私の印象に残った点を中心に紹介たい。
ちばさん自身はシンプルな「お手入れ」として、おばあさんの鮮やかな緑色のTシャツを着て現れた。アイロンをかけながら、丈つめした縫い跡の、丁寧だが洗練されていない味のある手仕事におばあさんの“ゆるさ”をみて、それが自身の性格にも影響しているんじゃないかと気づいたという。

ちばさんのお母様で日本画を描いているカツコさんは、義母であるちばさんのおばあさんの黄ばんだ服を持ち帰って漂白した。きれいになった服を写真に撮り、そのミニサイズのプリントを、この〈家〉の庭に咲く花々やベンチを描いた日本画に貼り付けて、3点のコラージュを制作した。震災でバラバラになってしまったおばあさんのネックレスの石をブレスレットに作り替えたり、パールを絵画のフレームに貼り付けたり。義母との思い出をイメージ化したそれらの作品を指差しながら、「おしゃれな可愛らしいおばあちゃんだったからね」と、繰り返し私たちに伝えてくれた。


ヒロコさんによるおばあさんの服の「お手入れ」は、潮水を被って錆びたパーツを付け替えるなど丁寧な手仕事がほどこされ、元の持ち主への敬意が感じられるものだった。彼女は1日目のWSで、自分の服とのコーディネートを考え、パープル系の矢絣模様のワンピース、黒いカーディガン、ロングベスト、シャツ3枚を持ち帰った。「クリエイティブなお手入れ」としては、服たちの傷を修復して1点ずつ物撮りし、さらに実際に組み合わせて着てみた上でコーディネート写真を撮影した。極めつけは、紫色の丈の長めのシャツを切らずに加工し、取手をつけたバッグで、そのアイディアと出来栄えに、参加者たちから「すごい!」と歓声が上がった。


チホさんは、持ち帰ったちばさんのおばあさんの服の中から、自分のワードローブにはない色のワンピースを着てきた。成人式以来人生2回目だという赤色の服を着てドキドキする心境、サイズがぴったりな上に家族にも似合うと褒められて嬉しかった気持ち。加えて、服の裏地の手縫いの跡に自身も針を重ねることで「実際にはあったことのないおばあちゃんに会えたのかな」とも語った。その他に持ち帰った褪色した服などは、今後、模様の部分を切りとってアクセサリー等に加工するつもりだという。

前回、おばあさんのアルバムを持ち帰ったユキエさんは、1983年の夏休みに不登校を決意した自身の物語を書き始めたものの、被災物と直接「関係ないものを書いちゃっていいのか」と迷って、筆が止まってしまった。前日になって、「私はこのアルバムを物理的にどうしたいのか?」と自問し、当初は砂だらけのままにしておくつもりだったそのアルバムのページをめくり、写真1枚1枚の汚れを拭き取った。この作業を通じて、そのアルバムの中には社交ダンスなど、数年間のおばあさんの楽しげで大切なイベントの写真が集められており、その期間がちょうど、対照的に高校に通えなかった自身の4年間と重なることに気がついた。それをきっかけに、1983年の夏休みの終わり、学校に行かないと祖父に告白した一日の物語を書き上げたという。
「8月30日、治りかけの風邪がそうであるように、ほんの少しだけトゲトゲさが和らいでいた——」
そのフィクショナルなテキストには、同年から現在に至る自身の記憶と、顔が似ているという祖父、母、妹の記憶を行き来する彼女の、宛先の定まらない切実な声が響いて、私の胸にも突き刺さるようだった。

チエさんの二つの作品は、かつてのおばあさんの居室に置かれた。一つ目はちばさんのおばあさんの花柄の寝巻きを円筒形に加工し、オーガンジーの生地を重ねて作った天蓋。もう一つは、透け感のあるシャツを加工したフロアランプだ。天蓋は1日目のWSでユキエさんが物語を書くと聞いて、中に入ってそれを読める空間を、と思いついたのだという。吊るされた天蓋の中に入ってくるまれると、外からの光に照らされ浮かび上がった可憐な花柄が、おばあさんのチャーミングな人柄を思わせて無性に愛おしく感じられた。もっとも驚かされたのは、天蓋の傍らに置かれた3つのガラス瓶だ。中の液体は服を洗った際に出た潮水であり、東北地方の塩を加えて煮詰めて出てきたという結晶や砂の粒が沈んでいた。
記憶は沈澱であり、プルーストのマドレーヌのようにある瞬間にかき混ぜられ、ふと浮上するものだと、チエさんは言う。一人の訪問者がガラス瓶を逆さに傾けながら、「スノードームみたい!」とつぶやいていたのも言い得て妙だ。


つづいて私は、衣装ケースの上に置いたモニターで《ふたりのおばあさんの服を纏う》を投影した。最後に、ちばさんやボランティアスタッフの学生などの感想を聞き合い、2日間のWSは閉会した。


6. 被災物であり、遺品であり、服であること
ここまで、〈渡波の家〉や被災物/服の軌跡を交えながら、本WSの経緯を記録してきた。この不思議な体験がもつ意味は参加者によって多様であり、これからも変わりうるだろう。ここではWS終了後の帰路で書いたフィールドノートを補足する形で、暫定的なまとめに代えたい。
「被災物」であること
「被災物」という語は、気仙沼にあるリアス・アーク美術館の学芸員、山内宏泰氏の造語だ[7]。自らもご自宅を、ご家族を津波で失った山内さんは、発災直後から地域の被災者の聞き取りの記録と合わせ、町に散乱していたかつて誰かの持ち物だったモノの収集を始めた。その際、これらのモノが「ガレキ」と呼ばれているのを不快に思い、「被災物」の語を発案したとされる。山内さんが中心に制作し、2013年から公開された同館の「東日本大震災の記録と津波の災害史」常設展示は、「感覚の分有・共有」を目的に、収集した持ち主不明の被災物に、被災者からの「聞き書き」のような「ナラティブ」を付したフィクション的手法で知られる。
「『被災の状態=質感』を保持することは被災物収集、保存における大前提、絶対条件」と山内さんが述べるように、ここに集められた被災物は、傷や砂をどどめるその姿によって、喪失の物語の雄弁な語り部であり続ける。展示空間の時間はあの震災当時で止められており、あくまで個人的な感想だが、胸をえぐるような痛みを伴うその「鑑賞」経験は、よそから来た私たちに、あの震災の悲劇を、被災者の苦痛を、見つめること、知ること、忘れないことを強く促す。
対する今回のWSでちばさんは、震災経験から距離のある私も含む参加者に、驚くほどの自由さをもって、大切な被災物を手渡してくれた。私たちは〈渡波の家〉を探索する過程で、フリーマーケットのようなワクワク感をもって、おばあさんの服を広げ並べた。違和感が現れたのはむしろ、それらのモノを自宅に招き入れてからだ。15年近くとどめ置かれていた津波の痕跡/記憶が失われゆくこと、被災物を自らの手で変えてしまうことへの戸惑い。それは被災物から発せられたかすかな声に耳を傾けることで見出された気づきであり、そのような葛藤を経て自らが被災物の「継ぎ手」になるという稀有な経験は、私/私たちをモノたちが宿す記憶の渦に巻きこみ、当事者/非当事者の境界を奇妙な形で突き壊す。
ここでも、ちばさんのお話を聞いた大学生の声が参考になる。
「物を持ち帰ったときに洗濯すると物の痕跡が消えてしまう」「切ったり別の素材にすることに抵抗感がある」という参加者の声に対して、第三者に関わってもらうことで自分が勝手に抱えてしまっている重さを分け合ってもらっていて、ちばさんの負担が軽くなるというお話が印象に残った。(……)当事者の方への配慮という形で支援や行動を遠慮してしまうことも多いと思う。そのように関わりを避ける行動自体が、当事者を孤立させより苦しめてしまうことに繋がるのかもしれない。むしろ物と関わってもらって一人一人の記憶の中に残してもらえることを、ちばさんが嬉しそうに語っていたのに驚いた。
「遺品」であること、「服」や「布」であること
津波をかぶった「被災物」であると同時に、ある故人の「遺品」でもあり[8]、縁もゆかりもない他者の身体が纏える「服」でもあり、今ここに生きる人や空間を包む「布」でもある。私たちが封を解いた被災物は、そんな混成体であるからこそ、これほどまでに多彩な「クリエイティブなお手入れ」が引き出されたのではないか。
WS終了後、参加者たちと雑談しながら興味深い話を聞いた。彼らは、本WSのキーワードは「ほどく」と「繕う」だと語る。たしかに私たちは、衣装ケースにしまい込まれていた服をみんなの手で“ほどいた”。それは同時に、ちばさんのおばあさんの人生や記憶、そして震災・津波の記憶を、ちばさんやご両親から聞く行為でもあり、結果的に、死者や災厄の経験として囲い込まれ、封じ込められていた過去の時間が“ほどかれた”。次に参加者たちがとりかかったのは、家に持ち帰った被災物を、さまざまなモノ――別の素材や参加者自身の服、参加者の過去の思い出や記憶――と合わせて“繕う”作業だ。私たちは、ちばさんのおばあさんの服を着る、素材化するといった、そのモノ自体と戯れる体験の中で、彼女の好みや癖に透けて見えるその生へと想像をめぐらせるよう導かれた。
こうした“繕う”作業を通じて自他の記憶が重ね合わされ、チエさんが置いた「スノードーム」のごとく複数の時間がかき混ぜられることで、沈澱していた記憶のカケラが浮上し、思いもよらぬ形で「今ここ」に降り注ぐ。それは、かつての持ち主の所有物とともにそれをめぐる記憶が、部分的に〈私〉になっていくことを意味する。重要なのは、WSの参加者たちが“繕う”際に、元あった傷や震災の記憶をとどめたり尊重しようと、できる限りの配慮をしていたことだ。この「私が繕っていいのか?」という逡巡こそが、本WSの核心だったと、私は実感する。
7.止まっていた時間を再び動かす
最後に、再生される「時間」について触れて、本稿を閉じたい。前述のリアス・アーク美術館の被災物の鑑賞が時間の止まっているモノを見つめる経験であるのに対して、本WSでは、被災物との間の、触ったり着たり作り替えるといった身体を介したやりとりを通じ、WSタイトルのように、止まっていた時間を再び動かすことが目指された。ただし、この「再生」とは、いわゆる「復興」のように過去から未来へと一方向に時間を進めることではない。
たとえば、ヒロコさんは持ち帰ったちばさんのおばあさんのブラウスにプライスタグがついていることに気づいて、袖を通す事のなかった持ち主の想いを掬おうと、そのタグ自体をラッピングするという「お手入れ」を思いついた。チホさんもまた、ちばさんのおばあさんの服を自らの服よりも丁寧に畳んだり、可愛らしいエコバッグに入れて“もてなし”たり、切った服の端切れを一枚残らず大切にとってあると、話してくれた。
2日間のWSで私たちが試みたのは、〈家〉やモノが宿す複数の時間の層に、自らの時間を滑り込ませることであった。この場所に重なり合っている、震災前にあった暮らしの時間、発災後に失われたかに見えた被災の時間、ちばさんが〈家〉が怪我した姿で生き続けていると気づいて「手入れ」することで動き始めた時間、WS参加者たちの記憶が持ち込んだ時間、この〈家〉で日が昇り落ちゆく「今日」が繰り返される時間、津波を受けた庭の木が生い茂り蛇が〈家〉の中を闊歩するまでの自然物たちの生の時間——。これら多様な時間が混淆する場は、時間が単線的に進む「防潮堤の内側の景色」とは異なる体験を、私たちの心身にもたらす[9]。
WSでの幾重にも重なり合う複数の時間を遊歩する経験を通して、私自身もまた「手入れ」されたように思う。自作の映像作品《ふたりのおばあさんの服を纏う》の最後には、他なるもの、交わることがなかった複数の〈私〉が、時間と空間を超えて邂逅し、交差し、ときに似ていたり、ときに異なる〈私たち〉になるという本WSで得られた感覚にならって、こんな言葉を添えた[10]。
「そして私/私たちは、前よりも少しだけたくさん、彼女たちを思い出す」
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[1] 2回のWS終了後の2026年11月26日、私が担当するお茶の水女子大学の授業で、ちばふみ枝さんに震災から現在までのご活動についてお話を伺った。本稿に載せた大学生の言葉は、本授業の感想コメントを本人の許諾を得て引用するものである。
[2] ちばさんによる上記のゲスト授業用の説明資料に筆者が加筆した。
[3] ちばふみ枝『海とカモシカ01』(2020年)、『海とカモシカ02』、『海とカモシカ別冊 くすんだベールの干渉』(ともに2021年)。
[4] 「フェスティバル FUKUSHIMA! 2021:越境する意志/ The Will to Cross Borders」展(2021 年9 月4 日〜10 月17 日、会場:福島市 四季の里/憩いの館)。その後、2022 年4 月に石巻の〈家〉に伺った。
[5] 松井至監督の短編映画「家は生きていく」(2023年、15分)。本作の制作過程については、松井至『つぎの民話』(2025年、信陽堂)に詳しい。
[6] 本サイトにアーカイブされている、梶原千恵「家を手当てすること―「生きる家プロジェクト」2024年オープンスペースの報告―」、井上幸治「海辺の家のカーテン―「生きる家プロジェクト2025」についての覚書」(ともに2025年)等を参照。
[7] 山内宏泰さんの「被災物」の考え方やリアス・アーク美術館の常設展示についての記述は、山内宏泰「記憶の器としての被災物」姜信子他『被災物 モノ語りは増殖する』(2024年、かたばみ書房)を参照・引用した。同書には姜信子さんらが大阪で試みた、リアス・アーク美術館の被災物から連想された物語を「語り直す」WSの記録が収録されている。これは「他者の記憶の継承という問い」を考える上で、とても興味深い取り組みである。
[8] ちばさんは2日目のWSの感想において、おばあさんの服を着ていった私の説明を聞いた大学生の反応にふれ、「津波をかぶるっていうワンクッションがあったから、『遺品』感が薄れたのかもしれないですね」と述べた。この2日間のWSの中で「遺品」という言葉が使われたのは、この時がおそらく初めてだった。
[9] 非単線的なさまざまな時間性の導入は、当事者/非当事者の二項対立を乗り越える可能性をもつ。人類学者の木村周平さんは、岩手県大船渡や綾里の人々の発災から15年間の足跡を多様な時間性をもって描いた著書『つなみのあと、みらいのさき』(2026年、生活書院)の中で、次のように述べている。
「物事を考える上での時間・空間のスケール(尺度)を変えてみることで、別の見方を提示しようとする。まとまりも差異も、ある視点からすれば一時的なものに過ぎず、そのつどそのつどで様相を変える。まとまりの中に差異があり、まとまりの輪郭はよくみると実は曖昧なものであって、その曖昧さに目を向けると、何が内(こちら側)で何が外(向こう側)かは確定的でなくなる」(同書8-9頁)。
[10] 〈渡波の家〉の洗面所の鏡には、ちばさんによって、次のような永井玲衣さんのテキストが書かれている。
「たとえ忘れてしまったとしても、写真がおぼえている。あなたがおぼえている。(……)複雑な時間の重なりを、一緒に生きている」(『世界の適切な保存』2024年、講談社、71頁)。
自作の映像作品を構想する際、この「作品」が脳裏に浮かび、その鏡が反照している入りくんだ時間性を、取り込んでみたいと考えた。
丹羽朋子
文化人類学研究者。災禍の記録/表現活動、日本を含むアジア圏のクラフトやフォークアートについて研究。近著に『〈動物を描く〉人類学』(共著、2024)、『死を感受する』(共著、2025)、共同企画した展覧会に「PART OF THE ANIMAL 動物と人間のあいだ」(生活工房ギャラリー、2025)、「語りにくさを語るー大川小をめぐる15年の対話」(東京工芸大学、2026)など。国際ファッション専門職大学准教授。
