家を手当てすること-「生きる家プロジェクト」2024年オープンスペースの報告―
レポート
家を手当てすること
-「生きる家プロジェクト」2024年オープンスペースの報告―

1. はじめに
家は自分のよりどころの一つだ。家の柱や壁、家具の配置、なにげない小物に生活や人生の断片的な記憶がつまっている。しかし、ひとたび自然災害が生じると、家は物理的に破壊される。家が失われると、そこで過ごした記憶も失われるようで怖い。
先日、能登町で出会った80代のAさんは、半壊判定を受けた家の取り壊しを決めた。「考えると胸がきゅーっとするの。こうして元気にしてるけど、本当に家がなくなってしまったら、自分はどうなってしまうんだろうって。」公費解体の期限があるので、考える間もなく家を壊さざるを得ない人たちがいる。「スピード感のある復興を」と言っても、もう少し迷ったり、気持ちを整理したり、ほかの道はないのだろうか。
被災した家を手当てしながら、家との関係性を紡ぎ直す、興味深いプロジェクトがある。石巻アートプロジェクト実行委員会による「生きる家プロジェクト」である。このプロジェクトの主役は、2011年の東日本大震災の津波で被災した民家で、彫刻家ちばふみ枝さんの実家である。津波で2階の床下まで浸水したが、砂や海水をかぶった家財を片付け、壊れた窓などの応急処置をして、ちばさんがアトリエとして大事に使ってきた。2023年には1回、2024年には5月と10月の2回、家を公開している。この文章は、2024年の第2回オープンスペースの報告である。
はじめに、プロジェクトの主役である家について紹介する。家がこれまでどのような経緯をたどり、一般的な災害伝承とは異なる「分有」という独自のスタンスをもつに至ったのか述べる。次に、二日間のオープンスペースの様子を参加者の視点から紹介する。
2.「生きる家プロジェクト」とは何か
(1)家のこれまでの歩み

ちばさんの家は石巻市渡波地区の長浜海岸の松林のすぐ裏手に位置する。青森ヒバを贅沢につかった家は、天井が高く、ゆったりとしている。ちばさんのお父さんがこだわって建てたという。広いリビングには家族や親せきがきっとたくさん集まっていたんだろう。ちばさんに「土足でどうぞ」と言われ、靴のまま家にあがった。人のお宅に土足で入ってもいいのだろうか、恐る恐る入った。津波によって天井板がはがれ、構造がむき出しになっている。壁にはさびた釘のシミが広がっている。家族写真の割れたガラスフレームのなかに、幼いちばさんが写っていた。「蛇がいるの」とちばさんが指さす方をみると、1m以上の蛇の抜け殻が天井からぶら下がっていた。
ここには確かにちばさんが生まれ育ち、生活を営んできた痕跡がある。その上に、荒々しい津波の跡が残っている。家の材料の劣化や入り込んだ野生生物の跡は、その後の13年間の時間経過を感じさせる。家は重層的な意味を帯びた存在になっている。
今ではオープンスペースとして家に人を招いているが、はじめからそうだった訳ではない。家を公開するまでにはいくつかのステップがあり、それは表現者であるちばさんならではのクリエイティブなプロセスであった。
ちばさんは津波でおばあちゃんを亡くした。はじめはちばさんのお兄さんが、亡くなったおばあちゃんの遺品の服を乾かそうと干していた。ちばさんは「乾いたものはしまう」のが当然と思い、遺品を処分するということは考えず、衣装ケースに乾いた服をしまった。
その後少し時間を置き2019年ころから、ちばさんは家のなかを片付けはじめるが、海水に浸かった家財をなかなか処分できなかった。そこで処分する前に写真を撮るという方法をとった。思い出のつまった物を捨てるのは難しかったが、写真で記録するといくらかは捨てやすくなった。撮りたまった写真はzine(個人出版の小冊子)にして販売したり1)、写真展を開催したりした。
2021年ころから石巻アートプロジェクトのメンバーの志村さんが、ちばさんの家に人を案内するようになった。志村さんは当時、地域芸術祭のスタッフをしており、他県から訪れる芸術祭のインターンに、地域のことを知ってもらうためにちばさんの家を案内した。震災を知らない他県の若者にとって、ちばさんの家は震災のリアリティを十二分に伝えたに違いない。
2022年には、石巻アートプロジェクトの企画として、映像作家の松井至さんを招き、家をテーマにした短編ドキュメンタリー『家は生きていく』を制作した2)。ちばさんが一人で片付けしようと思っても「身体が重くなり」できていなかったところも、ドキュメンタリーの完成後には片付けようと思えるようになった。ちばさんはドキュメンタリー映像が、それまで個人でやっていた家財の写真を撮る行為の「力強いバージョン」だったと言う。
2023年5月には第一回のオープンスペースを行い、海水に浸かった雑貨やアクセサリー、おもちゃなどを販売したり、それまで開けることができていなかった衣装ケースを来訪者と共に開き、写真を撮るワークショップなどを行った。その際には、県内外からのべ50人程が訪れた(河北新報 2023)。
こうして家は段階的に他者に開かれて、少しずつ片付いていった。「生きる家プロジェクト」の歩みは、ちばさんが、津波で大きく変化してしまった家との関係に折り合いをつけていくペースと軌を一にしているように見える。業者の手に委ねれば、被災した家はすぐに片づけたり、壊してしまうこともできただろうが、そうではなく、自分のペースで片付け、関心をもってくれる他者と共有した。効率優先の昨今、老朽化した物はすぐに壊して、新しいものに建て替える風潮があるが、ちばさんは、じっくりと家を片付け、手入れし、家が本来もつ寿命をまっとうさせようとしている。それはとても豊かだと思うし、そのプロセスは、私の眼には「表現」に見える。もちろんアーティストが介在して写真や映像を撮っているが、それだけではなく「整理しきれなさ」を他者と分かち合うという部分が、「表現」だなあと思うし、アートでないと扱えない部分だろうと思う。
(2)プロジェクトの特徴

ちばさんは、家を擬人化して見ている。家が被災して「ケガしている」とか、人が集まった時に家が「少し生気を取り戻した」とか、家を片付けて「表情が変わった」と言う。ちばさんは、「そういう視点でみると面白いよね。傷ついてるとか、被災した歴史をもってるからそういう経験をした家なんだっていうふうに見えて、ちょっと親しみを持つというか、ちょっと親近感(が湧く)というか、感情移入しやすいというか」と説明してくれた。五感や主体性がある存在として家を見ることで、家と人の関係がうまれる。
この視点は、この家に関わる人にも伝染するようだ。例えば、家をテーマに撮影した短編ドキュメンタリー『家は生きていく』でも、家が一つの生命をもった生き物であるかのように、俯瞰した視点からちばさんを見下ろすアングルが使われている。
また、ちばさんは、家が被災した事実のみを知ってほしいわけではないという。家の壁には津波の到達線が残り、被災した直後の写真も保存してある。家には災害伝承の史料として価値があるが、ちばさんの思いは別のところにある。少し長いが重要な部分なので、ちばさんの言葉を引用する。
「来てくれた人が、家と関係をもって、結んでくれるっていうことがすごく嬉しいって(思う)。(中略)私が家について語りたいわけじゃなくて、家自身が語ることに対して来てくれた人が耳を傾けてくれるというか。それを見るのが、なんかいいんだよね。(中略)だから私から、なんかこうでしょ、ああでしょっていうことでもないんだけど。(中略)だから来てくれた人が本当に、家とその人の固有の関係を結んでくれるというか、なんかそれがすごくいい、いいなって、なんか知らないけど思うんだよね。自分も救われるし、なぜか救われる思いがするんだよね。」(2024年10月27日インタビュー、下線は執筆者)
家を訪れた人が、家と関係を結んでくれることが、うれしい、救われると言う。この家にはちばさんの家族や友人だけでなく、いろいろな人が訪れる。人々は、被災地を訪れる観光客とは違う何かを見ているような気がする。
自然災害や戦争などの記憶継承に関する分野で「分有」という考え方がある。「分有」とは、個人による「占有」や、共同体における「共有」とは異なり、「所有不可能なものを分かち持つようなあり方」を言う。もとは哲学者のジャック・デリダの言葉だが、阪神・淡路大震災のメモリアルの検討のなかで、建築史家の笠原が重要な考え方として提唱した。
震災を直接経験していない人がいかに震災の記憶を共有することができるのか。被災者が震災について語れば、そのストーリーは強い力をもち、経験していない人を黙らせてしまう。それでは経験していない人が震災の記憶に関わる余地はなくなってしまう。誰もが自由に震災の記憶と関わるためにはどうしたらいいのか、という検討のなかで「分有」という考えに光が当たった。
「分有」とは、震災のような〈出来事〉の真実を実証主義的に伝えたり、再現したりすることではない。また、本来、多様であるはずの記憶に一義的な意味や目的を与えるということでもない。〈出来事〉を体験していない者にとっても、「現在の立場から、主体的かつ自由に過去の出来事を捉える」ことだ。その時に、記憶が過去の時点で実体化された「リアリティ」ではなく、その人自身の実感を伴った「アクチャリティ」が立ち現れるという(笠原 2009)。
ちばさんのいう「家とその人の固有の関係を結ぶこと」とは、この「分有」のことを言っているのではないか。ちばさんは家を通して津波の脅威や教訓だけを伝えたいわけではない。生活や人生の場である、家の歴史や背景を知ってほしいと思っている。家にとって被災は大きな出来事ではあるが、数十年の家の歴史からすると、ほんの一部である。
また「家」は、被災の有無に関係なく、誰にとっても人生の記憶のよりどころだ。ちばさんの家を訪れる人は、震災伝承館を訪れる観光客のように、スペクタクルとして震災を消費するのではなく、各々がもつ「家の記憶」と重ねてちばさんの家をみている気がする。
震災を経験していない人にとって震災は想像できない、分からない、怖いものなのかもしれないが、「家」と「家の変化」という点では被災したちばさんの家にも共感できるかもしれない。被災経験の有無や被災の程度によって人は分断されがちだ。「震災を経験しないと分からない」「どうせ他人事でしょう」という被災者と、「経験していないから語る資格がない」という未災者の間にはいつの間にか溝が生まれる。「家」という共通のよりどころは、両者の違いを前提としつつ、それぞれが自分の思いから震災に関われるし、両者の対話をも可能にする。「家」は人々をつなげるプラットフォームだ。
そういう意味で「生きる家プロジェクト」は震災の記憶の「分有」の実践とも言えるだろう。このような独自のスタンスが、大文字の防災や災害伝承になんとなく乗り切れない人たちをひきつけ、このプロジェクトの魅力になっている。
3.オープンスペースin渡波の家
前置きが長くなってしまったが、ここから本題で、2024年の第2回オープンスペースを報告する。オープンスペースで講師を務めたのは、彫刻家の菅野泰史さん、小林花子さんである。お二人は夫婦で、新潟県長岡市で築100年の古民家をセルフリノベーションした彫刻アトリエ&企画ギャラリー「雲雀舎(Hibari-sya)」を主宰している。
菅野さんはおもに石を素材に、ものの存在感や記憶を想起させる作品を制作している。1971年宮城県生まれで、愛知県立芸術大学大学院を修了後、名古屋、東京、長岡、仙台などを中心に活動し、2017年には宮城県芸術選奨を受賞した。作品には、表面を彫刻した白御影石の板を古民家の一室に敷き詰めたインスタレーション〈霧の思考〉(2003)や、古道具の長持ちのなかに海面を連想させる石を配置した〈月光-長持の海-〉(2012)などがある。
そして、小林さんはおもに木を素材に、古材や自然木に宿る生命を生かした作品を制作している。1971年東京都生まれで、武蔵野美術大学、愛知県立芸術大学大学院を修了後、国内外で多数の個展、グループ展を開催している。2005年から長岡造形大学美術・工芸学科で彫刻教育と研究に従事している。〈雲の家〉(2009)など、作品にはしばしば抽象化した家がモチーフとして現れる。また、虫食いの木の柱を用いたインスタレーション〈花の頃に−出会いの場所〉(2012)は、時間や記憶の痕跡を感じさせる。
家のリノベーション講座なのに大工ではなくなぜ彫刻家を招いたのかと思うかもしれないが、ここにも「生きる家プロジェクト」の特徴が見て取れる。家の機能や構造面だけでなく、家の背景や歴史、微細な空間の変化を感じ取れる「まなざし」をもつ人が必要だった。石や木の素材そのものの性質や存在と向き合ってきた二人だからこそ信頼してちばさんは家の手当てお願いすることができた。
(1)10月12日(土)レクチャー
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一日目にレクチャー「人が集える場としての家の可能性について―雲雀舎での取り組みから」があった。参加者は約15名で、家、美術、震災伝承とさまざまな関心をもつ人々が集まった。ちばさんのご家族も参加され、会場はアットホームな雰囲気だった。
講師の二人が主催する「雲雀舎」は長岡市逆谷(さかしだに)という30戸ほどの集落にある。二人が長岡に移住しスタジオを探していた際に不動産屋から紹介され、いろいろあった末に譲り受けることになった。明治42年(1909年)築の二階建てで、格式のある建物である。建坪100坪で、6畳ほどの部屋が10部屋ほどあり、かなり広い。昭和時代に何度か改装され、創建当時のまま残っていたのは2階の部屋の一部や奥座敷、特徴的な上玄関くらいだった。
2008~2010年にかけて行った古民家の改修では、原型をとどめないほど新しくしてしまうのではなく、外観はできるだけ創建当時の古い姿に戻し、内装は住みやすいようにという方針で改修した。築100年とはいえ柱などはとてもよい材料で、壊してしまうのは「かわいそう」だと思い、残せるものは残そうとした。ただし、昭和時代に増築された部分は、建物の「イメージと合わず」、いったん取り外すことにした。いろいろ取り外して、元の建物の姿に近い状態になったところで、改修の見取り図を作り始めた。
どうしても大工さんの手が必要な部分以外は、基本的には自分たちでコツコツと直した。彫刻家の二人は大工さん顔負けの道具や技術をもっていて、時には大工さんを手伝いながら一緒に作業する場合もあったが、改修の方針が大工さんにうまく伝わらない場合もあった。例えば、大工さんが建物の強度に関わる柱を交換しないまま、その上に壁を貼ってしまい、結局後で柱を交換することがあった。二人は安く、早く直したかったのではない。自分たちが建物から出ていくかもしれない50年、100年先も考えて、本質的に家を保つことを考えていた。建具なども、年代の近い家からもらってきたり、ネットオークションで探したりして、できるだけ「ケミカルなもの」は使わないようにした。
雲雀舎が改修をおえる2010年、向かいの寛益寺(かんにゃくじ)もまた本堂の再建工事を終えようとしていた。寛益寺は718年に行基によって開かれ、上杉謙信の祈願寺として知られている。本尊の薬師如来は、県の指定文化財で、12年に一度の御開帳には3日間で約2千人が訪れる。しかし、1961年の集中豪雨で裏山が崩れ、本堂が全壊した。それから50年ぶりに本堂が再建され、2010年に秘仏を開帳することになった。二人はこの機会に雲雀舎のお披露目もかねて何かできないかと考え、集落の記憶をテーマにした展示を企画した。集落の家々を一軒ずつ回って趣旨を説明して写真を集め、預かった写真を一枚ずつスキャンし、レタッチした。明治時代の屋号で記された集落の地図や、豪雨災害とその復興を記録した写真を集めた本堂地下での展覧会は多くの参拝客に喜ばれた。移住当初、集落にはよそ者をいぶかしむ雰囲気もあったが、この展覧会をきっかけに集落と二人の関係は変化した。翌年の2011年には、東日本大震災をうけ、チャリティー展を開催した。二人は日ごろから、美術家として社会に何をどう還元していくかを考えている。
このように築100年の古民家との出会いから、2年間にわたるリノベーションのプロセスについて、二人の講師は多くの写真や資料を用いて丁寧に語った。予定時間を大幅に越ええて2時間半ほど続いたが、あっという間だった。
(2)10月13日(日)リノベーション講座

二日目は参加型のリノベーション講座「壁補修から今後の“家”を構想する」だ。チラシのメインビジュアルにもなっている、ちばさんの家の和室の砂壁は津波で傷み、最近はぼろぼろと崩れてきた。ちばさんは掃除のたびに砂を1か所に集めると、自然と「三角山」ができた。「三角山」の写真は2021年の展覧会「手つかずの庭」でも発表されている。
これまでは砂のせいで床が埃っぽく、家に土足で上がるほかなかった。砂が落ちてこなければ、内履きやスリッパで入れるので、自然と家への敬意が生まれてくるのではないかと、ちばさんと講師の二人は考えた。この講座では、これから落ちてきそうな砂壁も落として、壁に漆喰を塗った。講座に集まった5名は、つなぎやジャージ、マスクに軍手、手ぬぐいと万全の装備である。
はじめに落ちた砂壁の掃除をした。和室の壁面上部を取り囲む長押(なげし)に、はがれ落ちた砂壁や、津波で運ばれた砂や松葉が詰まっていた。一つのチームは、板間に養生をして、長押の砂を落としていく。もう一つのチームは砂でできた「三角山」をふるいにかけて、大きなゴミを選り分けていく。ふるいにかけた砂は、漆喰に混ぜて壁を塗るときに再活用するという。
一見ただの掃除なのだが、参加者はそれぞれの思いをもって作業していた。ある参加者は長押に詰まった大量の砂を、全身砂まみれになりながらかき出し、「家をマッサージしながら「お疲れ様」と労っているようだ」と言っていた。ある参加者は、ちばさんの作品にもなっている「三角山」を神妙な面持ちでふるいにかけていた。「崩していいものなのか」とためらいながら慎重に作業していた。こうした作業は、これまでの家の時間や記憶を整理する象徴的な行為のようにも見えた。参加者が集めた砂は土嚢袋7つほどになった。
その間に、講師の二人は穴の開いた壁をきれいに直していく。落ちそうな砂壁をきれいな長方形に切り取り、断熱材のスタイロフォームをはめ込んだ上に、板を貼り直す。この板が新しい漆喰の土台になる。直した部分は壁全体の割合でいうとほんの数%なのだが、それだけで部屋の気配が変わったような気がする。菅野さんは「人の手が入って、直そうとする意志があるとね、ちょっとしたことなんだけどね、整理しただけで、水拭きしただけでトーンが変わる」という。まさにそうだと思った。
後半は漆喰塗りのワークショップだった。菅野さんが漆喰の塗り方のお手本を見せてくれた。実際に壁に塗る時間はなかったが、練習用の板に参加者が一人ずつ漆喰を塗った。初めての漆喰の感触に戸惑いながらも、参加者は丁寧に漆喰を塗っていった。家をこれまでずっと見守ってきた砂壁は、壁の役割を終えて砂に戻り、再び漆喰の材料として活用される。家は循環し、生き続けていく。
ちばさん以外の人が家に手を入れるのはこれが初めてで、ちばさんにとっては大きな決断だったに違いない。作業を終えて、ちばさんの表情はほっとしていたように見えた。参加者たちは程よい疲労感と、共同作業を通してできたつながりを味わっていた。
4.おわりに
ここまで「生きる家プロジェクト」の経緯と2024年のオープンスペースについて報告した。プロジェクトの参加者に参加の動機を聞いてみると、家にいるのが子どもの頃から好きだったとか、家の模様替えが好きだとか、震災でひび割れた家を直したいとか、「家」にまつわるいろいろなエピソードがでてきた。「生きる家プロジェクト」ではそれぞれの人が自由に「家」に関わっている。
このプロジェクトに関わるまで、自分にとっての「家」の意味は考えたことがなかったが、改めて考えると、家は生活の記憶と強く結びついていることに気づく。ベタだが、小学生までは兄弟三人の身長を居間の柱に記録していたし、父親が酔っ払ってぶつかった壁の傷も残っている。ダイニングテーブルで家族が座る定位置も覚えている。
こういう断片的な人生の記憶を保存した「家」が失われると思うと、強い痛みを感じる。何も自然災害だけでなくとも、管理ができなくて家を壊さざるを得ないこともあるし、建物として老朽化し、いつかは朽ち果てていく。
「生きる家プロジェクト」をみていると、表現やアートは、そういうやりきれなさに折り合いをつけていく営みとして、やはり重要だと思わせる。家の写真や映像を撮ることで、記憶を残すこともできるし、それを作品として発表することで、他者と分かち合うことができる。なかでも家を人と見立てて、手当するというのは、急激な家の変化と、自分の関係を紡ぎ直す、象徴的な行為として、非常に興味深い。
ちばさんの家は、これからも多くの人との関わり合いのなかで、生きていく。今後は家で展覧会を企画するなど、人が集まれる場にしていくそうだ。もう少し、家の変化を見守りたいと思う。
【参考文献・資料】
・笠原一人、寺田匡宏編(2009)『記憶表現論』昭和堂
・河北新報オンライン「新たな一歩へ 震災で被災の実家、彫刻家ちばさんが公開 活用法も話し合う 石巻」2023年5月14日
https://kahoku.news/articles/20230513khn000036.html(2025年1月26日閲覧)
・ちばふみ枝さんインタビュー、2024年10月26日、オンライン94分
・オープンスペース参加者5名グループインタビュー、2024年11月16日、対面115分
・ちばふみ枝さん講演、2023年11月4日、「次世代への記憶継承のかたち-石巻の若手の取組から」(DAIS石巻)、対面20分
【注釈】
1)ZINE「海とカモシカ」01~04
2)短編ドキュメンタリー『家は生きていく』15分
「東京ドキュメンタリー映画祭2023」短編部門にノミネート。Vimeo(https://vimeo.com/883173012)で予告編が見られるが、本編の視聴希望者は直接松井さんmatsuimamadou@gmail.comに連絡することで視聴が可能。制作記がweb 連載として公開中。「信陽堂編集室草日誌 連載『人に潜る 第1話』松井至」(https://shinyodo.net/diary/959/)
【謝辞】
インタビューに快く協力してくださったちばふみ枝さん、奥堀亜紀子さん、佐藤千穂さん、高橋広子さんに感謝いたします。
文:梶原千恵
写真:1、2、4、5石巻アートプロジェクト実行委員会提供、3『家は生きていく』より松井至さん提供。
梶原千恵
1982年宮城県出身。専門は芸術社会学、美術科教育学。博士(芸術工学)。
研究テーマは、被災者、障害者、外国人との協働によるアートプロジェクト、インクルーシブアート防災、視覚障害のための教材開発など。論文「記憶継承における共創の可能性-東日本大震災後のアートプロジェクトの事例分析-」ほか。